鹿児島県民医連とは

鹿児島県民主医療機関連合会は
こんなところです。

戦後、医療に恵まれない人々の要求にこたえようと、地域住民と医療従事者が手をたずさえ、民主的な医療機関が各地につくられました。全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)は、これらの連合会として1953年に結成されました。以後、半世紀以上にわたって地域の人々にささえられ、身近な医療機関として活動しています。医療制度を改善する運動もすすめ、「いのちは平等である」との考えから、差額ベッド料はいただいていません。また、地域の要求から介護・福祉分野の活動も活発に行っています。

現在、民医連に加盟する事業所は、全国の47都道府県に1700カ所を超え、約8万2千人の職員と、医療生活協同組合員や友の会会員約370万人の方々が、ともに保健・医療・福祉の総合的な活動、安心して住み続けられるまちづくり運動を進めています。

「鹿児島民医連」誕生秘話

奄美から生まれた「鹿児島民医連」

奄美から生まれた「鹿児島民医連」

鹿児島県で最初の民主診療所は、1954年(昭和29年)12月5日名瀬市で誕生した奄美診療所です。この診療所が後に奄美中央病院となりました。
奄美大島は1946年2月2日、マッカーサーの2・2宣言によって日本から分離され沖縄と共にアメリカの直接占領下におかれましたが、奄美郡民の8年間に及ぶ粘り強い日本復帰闘争によって、1953年に復帰を闘いとりました。アメリカの直接支配で植民地的生活を強いられていた島民の切実な医療要求と日本復帰を実現した民主勢力の力量の増大が奄美診療所発足の直接の契機になっています。
それから50年が過ぎようとしています。我々は「地理的離島はあっても、人の生命(いのち)に離島があってはならない」をスローガンに、日々医療活動を行っています。

当時の奄美

奄美郡民の深刻な健康破壊の背景は、遠く封建制下の薩摩藩の圧制から引き継がれたものであり、明治維新後も近代医学の恩恵から大きく取り残されてきました。明治6年に来島した租税大属の人は、当時の島の模様を次のように報告しています。
「島民は10に8、9は窮民で、ここの食事はイモとソテツで生計を営み、1年のうち必ず台風災害がある地域でイモさえ不足しもっぱらソテツと海草や蟹蜷類で命をつなぎ、そのため皮膚は青く、全身に浮腫があり、病人でも薬はなく、食事はとれず、死亡した人が少なくない。もちろん衣服は寒い冬でもバショウの一重一枚の者が多く、豊作の時は苦しみ凶作の年は死をまぬがれずに、見るにしのびない」
このような状況を反映して、明治19年から20年の初期には疱瘡に1万200人がかかり4,357人が死亡しています。

診療は紬工場の一隅からはじまった

診療は紬工場の一隅からはじまった

アメリカ軍政下から日本復帰を闘いとった直後の1954年2月に衆議院選挙が行われ2月の選挙では法定得票に達する者がなく同年4月に再選挙が行われました。このとき全国から40数名の選挙支援団が来島しました。

この選挙終了後に選挙支援団の総括が行われ、その席上、全国民医連派遣の上原格医師(当時労働者クラブ)が医療に関する報告を行い、この総括で奄美郡民の健康を守るセンターとして民主診療所を建設する方向性が出されました。

1954年夏に大阪で開催された全国民医連総会でこの問題が討議され、奄美大島診療所の建設が全会一致で決定されました。この決定の具体化を一任された東京民医連は、現在より以上に深刻な医師不足を克服して、代々木病院の石垣堅吾医師と労働者クラブの柴田茂子看護婦を派遣し、中村安太郎さんの紬工場の一隅で診療を開始しました。

今もひきつがれている、創立からの理念

今もひきつがれている、創立からの理念

(当時の待合室のお願い文より)
国民の健康を守る運動の一つとして奄美診療所は郡民の熱望によって開始されました。
この診療所は皆さんのものです。診療所に対する意見や希望が沢山あると思いますからドシドシときかせてください。
みんなの力で問題を解決して行きたいと考えます。

医師確保の困難

離島にある診療所として医師確保は非常に困難な状況でした。様々な人々の協力があり、今日とはくらべものにならない苦労がなされています。こんな中でも、当時の九州民医連の協力などもあり、1961年8月6日の南大島診療所開設に大きく貢献しました。また、1965年には現奄美医療生協徳之島診療所の前身となる徳之島分院を開設しました。
1966年からは鹿児島大学医学部の学生の夏期研修を受け入れ、これは現在、鹿児島民医連の夏の医系学生企画である『離島フィールド』として引き継がれ、鹿児島民医連医師団形成・看護師集団形成に大きな役割を果たしていくようになりました。